インスリンが分けた哺乳類と鳥の運命
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佐藤拓己
(1)低酸素という選択圧
現在の大気の酸素濃度が高いために、古細菌*1の世界は深海だけに存在する。そこでは、硫化水素やメタンが高濃度にあり硫化鉄のため黒い色をしていて、酸素がほとんどない。
現在でも、この酸素濃度の極端に低い、黒い色の海が身近に存在する場所がある。ウクライナ、ロシア、ルーマニアやトルコに囲まれた黒海だ。なぜ「黒い海」という名前がついているのか?
黒海では、酸素濃度が高い青色の海は100m程度の深さしかない。そこから下の海にはほとんど酸素がなく、硫化水素やメタンが高濃度に存在するため、黒い色の海(古細菌の世界)が広がっている。このため「黒海」と呼ばれているのである。
もし酸素濃度が下がると、青色の海の部分が海面から数メートルしかなくなり、青色の海は海面に近い部分だけの、わずかなペラペラな平面になる。そこから下は古細菌の世界になることは十分にありうる。今まで何回もこのような海なった。
実際に、2億5千万年前のPT境界*2の直後には、このような海になった。海から噴き出した硫化水素がパンゲア大陸の内陸の奥深くまで覆った。これにより生物は呼吸ができなくなり、大部分の生物が死滅した。生物を壊滅させた真犯人は、海から噴き出た硫化水素だったのだ。これが、ピーター・ウォードが描いた大絶滅のシナリオの最終章だ。
地球では頻繁に、このような低酸素による大絶滅が起こった。低酸素による大絶滅にどのように備えるのか?これが真核生物にとって重大な課題である。
(2)インスリンというホルモン
ここでインスリンが登場する。インスリンは真核生物の初期から存在した最古のホルモンである。
インスリンは、ヒトの身体に大変に大きな影響を与える。もしかしたらインスリン1つで、他のホルモンをすべて足した影響よりも大きい。インスリンは、「ホルモンの中のホルモン」だ。
たとえば血糖値という指標を見ればわかる。血糖値を上げるホルモンは数多いのに、血糖値を下げるのはほぼインスリンしかない。インスリンの作用は巨大すぎて、微調整がほとんど不可能なのである。このため、数多くの血糖値を上げるホルモンを動員して、インスリンの作用が行きすぎないように微調整している。それほどインスリンの影響は大きい。
インスリンは、ヒトの代謝の全体を決定してしまう。インスリンの作用の基本は、血糖を取り込み、中性脂肪を合成することだ。一度インスリンが増加すると、この作用は少なくとも何時間も続く。
インスリンは、細胞と細胞の情報のやり取りをするホルモン分子であるから、多細胞生物では重要な働きがある。
一方で単細胞生物でも、インスリンは広く存在することがわかっている。これらのことから、少なくとも多細胞生物が誕生した約10億年前よりさらに前に、インスリンはすでに、細胞間のホルモンとして作用していた可能性が高い。
ヒトのインスリンを単細胞生物に添加しても、ヒトと同じように糖の取り込みが起こる。なぜ単細胞生物にインスリンが必要なのだろうか?
この単純な疑問は、大変に重要な示唆を我々に与えてくれる。低酸素による大絶滅が起こっても、子孫を確実に後世に残す方法、これがインスリンの本来の機能だったと筆者は考えるからだ。
インスリンは、数多くの単細胞生物で、ホルモンとして機能することが知られている。
- 1.細胞増殖を促進する
- 2.酸素消費を抑制する
- 3.解糖系を促進する
- 4.低酸素に対して耐性を与える
などの作用がある。さらにインスリンは、単細胞生物の代謝と増殖を長時間にわたって大きく変える。驚くべきことに、単細胞生物を1時間インスリンで処理すると、以降1000世代の娘細胞に強い影響を与えるという。つまり、インスリンに少しでも感作されると、1000代後の子孫まで代謝が大きく変わってしまう。
18億年前から8億年前の間は、「退屈な10億年」*3と呼ばれる期間は、酸素濃度が特に低く、多くても現在の酸素濃度の数%である。
生物は頻繁に低酸素に暴露されてきたため、低酸素に暴露されると、生物は共通の対応をする。低酸素に暴露されると、真核生物はミトコンドリアを抑制し、酸素の消費を抑制し、効率は悪いがブドウ糖を使ってエネルギーを生産する。あとはひたすら子孫を残すことを目指して、細胞の増殖に全資源を投入する。
真核生物が出現した時、すでに低酸素に対する対応が存在していて、そのための手段がインスリンだった可能性がある。
2019年のノーベル生理学・医学賞は、英米のグループに、「低酸素応答」*4という主題で与えられた。これは、何度も繰り返された低酸素の時代をどのように生き残るのかという課題が、何にも増して重要だったからである。
多細胞生物では、インスリンが「低酸素応答」を強化することが、多くの研究で明らかになっている。すなわち、インスリンというホルモンがあると、周囲の細胞まで巻き込んで、「低酸素応答」をすることで、より確実に子孫を残すことができるようになるのだ。
低酸素応答とインスリンは車の両輪のようなもので、生物はこの2つの手段で、低酸素を生き残ろうとする。インスリンと低酸素応答に相互に促進する作用があることは、多くの多細胞生物で同じように保存されている。
ヒトの細胞を例にとれば、すべての血液の細胞のもとになっている血液幹細胞は増殖型の細胞の代表的な例だ。血液幹細胞の培養にはインスリンと低酸素が必要だ。
(3)インスリンは増殖型の細胞を増やす
真核生物には増殖型とエネルギー型のふたつのモードが存在する。インスリンが、この二つのモードを変換する。インスリンが存在すると急速にエネルギー型は増殖型にモードスイッチする。
増殖型:酸素濃度が低下すると、真核生物は酸素消費を減らして生き残るしかなくなる。そのためにはミトコンドリアには頼らず、最小限のエネルギー生産をして、確実に子孫に残すようになる。増殖型の細胞は、酸素濃度が低くても生き残る可能性が高い。
エネルギー型:酸素濃度が増加した時は、酸素を使ってエネルギーを生産する細胞の方が有利である。細胞内に多数のミトコンドリアを抱えてエネルギー生産を最大化する細胞である。
真核生物は、何度も低酸素による生命の危機を経験し、増殖型とエネルギー型を同時に維持するシステムを身につけた。すなわち、細胞の型を決める「ホルモン」を発明した。これがインスリンだ。インスリンが働くと、周囲の細胞まで巻き込んで、「増殖型」の細胞にすることができ、より確実に子孫が残せるようになる。
低酸素が持続すると、真核生物はインスリンを分泌して、周囲の細胞を増殖型にする。高酸素状態が持続して、インスリンが分泌されない状態が持続すると、大部分の細胞はエネルギー型になる。
インスリンは低酸素の環境でも長く生存し続けるための対抗策で、インスリンの本質は、単細胞の頃に何回も起こった低酸素ストレスに対する防御機構であったのだと思う。
多細胞生物でも、低酸素に暴露されると、インスリンは決定的な役割を持つ。多細胞生物でも基本的に同じ反応が起こる。インスリンの感受性を増加させて、酸素消費を減らす。インスリンがミトコンドリアを強く抑制するからだ。その結果、運動能力は抑制されることになる。こうして多細胞生物は、運動能力を犠牲にして低酸素を生き残ることになる。
哺乳類やその先祖である獣弓類は、低酸素に暴露されると、インスリンの作用を強化して、運動能力を下げる。
(4)哺乳類の苦闘
獣弓類*5はガス交換能力の低い肺しか持っていなかったが、酸素濃度の高かったペルム紀(3億年前から2億5千万年前の期間)においては問題が生じることはなかった。そもそも彼らの運動能力は、低いレベルにとどまっていたから、彼らの肺で十分な酸素を供給できた。
しかしPT境界の後、酸素濃度が急落すると、どのような反応が起きたか。
現在の哺乳類の生理学から推察することは難しくない。哺乳類が低酸素環境に暴露されると、まず起こることは、呼吸数を増やして換気量を増やそうとすることだ。
これでも対応できないとなると、次の彼らの対応は「酸素濃度はいずれまた高くなる」と淡い期待を持ちながら、運動のレベルを下げること、すなわちじっとしていることだった。
この低酸素がさらに持続すれば、起こることは、インスリンの感受性の増加だ。インスリンは細胞内のミトコンドリアを強く抑制する。これにより、さらに運動を抑制する。これしか彼らには方策がなかった。
獣弓類は低酸素に対して、わずかなボディプランの変更しか行っていなかった。獣弓類は低酸素に暴露した際、インスリンの感受性を上げて、ミトコンドリアの酸素消費を減らして、肺からの酸素の供給不足に対処しようとした。
しかしこの程度では、PT境界での酸素不足は解消されなかったはずだ。常に酸素が不足しているため、ゆっくりとした運動しかできなかった。このため獣弓類の運動は、非常に緩慢で、獣脚類*6の格好の獲物になった。
PT境界の前のペルム紀では、主な選択圧が低温であった。このときインスリンの感受性を高く保つ方が有利になる。すなわちインスリンの作用によって、厚い皮下脂肪で体を覆い、体温を保つのである。
ただ、インスリンはミトコンドリアがフルパワーで働くのを阻害するため、高い運動能力を持続させることができなかった。これがペルム紀の獣弓類の姿である。厚い皮下脂肪があって、ミトコンドリアがインスリンに常に抑制されているために、動作は大変に鈍いままだった。
哺乳類の先祖である獣弓類には、三畳紀のすさまじい環境中では、獣脚類との生存競争を勝ち抜く要素が何ひとつなかった。彼らのミトコンドリアはインスリンで活性が低く抑えられていたため、低酸素では運動を維持することができなかった。インスリンの感受性を保持したため皮下脂肪が蓄積した。これが熱中症になる危険性を高めた。
彼らの唯一の生活場所は、涼しい地中に掘った穴しかなかったから、昼間はそこでじっとしていることしかできなかったのではないか。そして少しは温度が下がる夜に外に出かけて、獲物を探す習性ができた。夜に獲物を探すために、嗅覚を発達させた。これがジュラ紀の哺乳類の姿であろう。
獣弓類も、三畳紀にボディプランの多少の変更を行っている。横隔膜を装着して、ポンプ式の肺の機能を持ったことだ。これにより、腰椎から出る肋骨を失うことになった。三畳紀末期に現れたトリナクソドン*7の肋骨が覆っているのは胸部だけである。これはトリナクソドンが横隔膜を装着したからだ。現在の哺乳類につながるのは、横隔膜を装着したトリナクソドンである。
大腿骨が肋骨に邪魔されないので、まっすぐ下に配置され、骨盤から真下に伸びる後肢で体を支えることができた。背骨をくねらせずに前進することができ、運動しながら呼吸することができるようになった。すなわち呼吸と運動の分離が進んだのである。
ただ、この改革は時期を逸したものだった。簡単にいえば、すでに手遅れである。獣脚類は進化のはるか前方に行ってしまっていて、追いつくことは困難だった。
哺乳類の変革はまことに小さなもので、低酸素への適応は不完全なままだ。現在の哺乳類も、低酸素への適応は、いまだ不完全だ。ヒトは特に不完全だ。ホモ・サピエンスは体の一番高いところに、低酸素に最も弱い大きな脳を置き、それを支えている。
たとえば富士山(3776m)程度の高さの山の山頂まで登った多くの人が、低酸素による頭痛や吐き気に苦しむことになる。脳の機能は、まことに危ういばかりの空気中の酸素濃度に支えられている。これはホモ・サピエンスの、種としての決定的な弱点ではないかとさえ思える。
哺乳類の肺の能力には余裕があまりないので、もし酸素濃度が下がれば、とても種としての維持はできないということになる。酸素濃度が下がるという災難が、将来起こらないことを祈るだけである。
ペルム紀に最も繁栄していた獣弓類は、三畳紀には一部の種を残して全滅した。わずかでも獣弓類が三畳紀を生き残らなければ、人類は生まれなかった。また哺乳類は、横隔膜を発明し、酸素の取り込みを増やして、体を極端に小型化し、地中の穴の中で子孫をつないだ。
(5)三畳紀の覇者:獣脚類
三畳紀は低酸素(10%程度)で高二酸化炭素(0・2%程度)だった。6000mの高度と同じ酸素濃度であり、気温は真夏のアリゾナの砂漠の真昼のようだった。今のアリゾナと異なるところは、夜もあまり気温が下がらないことだ。
この時、インスリン耐性の方が有利になる。獣脚類はインスリンの作用が最小限であるため、ミトコンドリアがフルパワーのまま運動を持続できるようになった。すなわちスーパーミトコンドリア*8を完成した。また獣脚類はこの時期、外温性であったので、熱放散が有利になり、さらに持続して運動能力を発揮できた。この運動能力で、獣脚類は、食物連鎖の頂点に立つことになる。
獣脚類が出現したのは、三畳紀後期(2億3千万年前頃)だといわれているが、それは空気中の酸素濃度が、脊椎動物が上陸してから最低のレベルになった時期だ。すべての脊椎動物は、低酸素でも生きていけるシステムを模索していた。低酸素への適応こそが、脊椎動物の生存を決めた。
鳥やその先祖である獣脚類は、PT境界の直後にインスリンの感受性を失ったために、低酸素であっても酸素を使って多くのエネルギーを生産するシステム(スーパーミトコンドリア)を身につけた。このため獣脚類は、三畳紀の低酸素条件下であっても、強度の強い運動を持続できた。
獣脚類が恐竜の中で、最も低酸素への適応に成功したグループであったからこそ、鳥という脊椎動物で最も進化したグループを生み出し、現在にいたっている。
大きく見れば、酸素濃度が低い時は、獣脚類が覇権を握り、酸素濃度が高い時は、哺乳類が覇権を握った。獣弓類や哺乳類は、酸素濃度の高い時しか生きていけない。獣脚類や鳥は異なる。酸素濃度が高くとも低くとも、適応できる能力を持っている。将来、酸素濃度が低下しても、十分な適応能力を持つ。
古細菌*1:地球上の全ての生物は、細菌、古細菌そして真核生物の3つのグループに分かれる。20億年前に細菌のひとつが古細菌に共生して、真核生物が誕生したとされる。一般に古細菌は嫌気性の環境にしかいない。
PT境界*2:2億5千万年前に起こった大絶滅のため、生物の化石が殆どない地層部分のことを指すが、大絶滅のイベント全体をさす用語としても使われる。この地層で古生代(ペルム紀)が終わり、中生代(三畳紀)に入る。
退屈な10億年*3:前後の時代には大規模な環境変動の記録が残されているのに対して、この時代は特筆すべき大きな環境変動が認められず、生命進化の観点からも大きな進展がみられない。
低酸素応答*4:低酸素に暴露された時、特定の応答遺伝子の発現を介した機構。
獣弓類*5:ペルム紀末期から三畳紀後期にかけて存在した、哺乳類の先祖。過去には哺乳類型爬虫類とも言われた。
獣脚類*6:直立二足歩行を行う多くは肉食恐竜(一部は草食)である。骨盤の恥骨が前方を向く恐竜の仲間。鳥類の先祖と言われる。アロサウルスやティラノサウルスは獣脚類に含まれる。
トリナクソドン*7:三畳紀に北アメリカに生息していた獣弓類。低酸素への適応のため、横隔膜を装着した。
スーパーミトコンドリア*8:鳥のミトコンドリアは、哺乳類のものよりもはるかに活性が高いことが知られている。鳥や哺乳類のミトコンドリアだけを取り出して酸素消費などを計測して、比較を行った研究は数多く存在する。この高いミトコンドリア活性は、鳥と獣脚類はインスリン耐性であったためだ。逆に言えば哺乳類は、インスリンで常にミトコンドリアの活性が抑制されているために、鳥のような運動能力を発揮できない。このあたりの理論的な背景は以下の論文を参照。
Satoh T. Bird evolution by insulin resistance. Trends Endocrinol Metab. 2021 Oct;32(10):803-813. doi: 10.1016/j.tem.2021.07.007. Epub 2021 Aug 23. PMID: 34446347.